2017年1月19日木曜日

ア式


ア式に捧げる4年間に一体どんな意味があるのか。
来年の立場上、この問いに対する自分なりの答えを持っておかなければならないなと、なんとなく答え探しに取り組んでいた。そんな時期に、1年生がア式を次々と退部した。ア式に対して大きな自信を抱いていただけに、ア式にはそれほど魅力がないのかと、ショックだった。平和ボケした頭を思いっきり殴られたような感覚だった。良い意味でも悪い意味でも自分はア式に染まって、盲目的になってしまっていることに気づかされた。入部したての頃、自分もア式に対して多くの不満を抱いていたことを思い出した。それからこの問いは僕にとって深刻な悩みとなった。僕たちがやっていることは所詮自己満足なのか。ア式という舞台は、大学生活4年間という自由を与えられたときに、それを最大限活用しようと考えている人間にとって、他の活動を押しのけて選択するほどの価値がないのか。無いから辞めてしまう人、入部しなかった人がいるのではないか。そう考えてしまい部活に力が入らなくなるときもあった。それでも自分の大好きなア式の持つ可能性を否定したくはなかった。ア式に捧げる4年間にも大きな意味があるのだと自分を納得させたかった。様々な人の考えに触れながら、自分なりにその答えを探し続けた。
 
そして僕が辿り着いた答え。
それは、人間としての成長。
何の変哲もない答え。
 
ア式にいると、僕たちは二つの方向から自分と向き合うことが求められる。
一つは、選手として弱い自分と向き合うこと。 
自分よりも強い選手を越えるために、日々研究し、工夫し、努力しなければならない。毎日が挫折と挑戦の繰り返し。そうやってもがき続ける中で、成長するために必要な姿勢だったり、心構えだったり、力だったり、大切な多くの要素に少しずつ気づかされていく。昨日より今日、今日より明日と、気づきを重ねる度に、選手としても、人間としても成長していく。4年間、サッカー選手として成長するために必死に努力を重ねていくことは、一人の人間として成長することにもつながっている。
4年間、選手として弱い自分と向き合い続ける、そして人間としての成長を得る。これだけでも十分のように思われる。大半の部活がそうだ。けれど、ア式はここで終わらない。
学生主体で、個人の主体性が試されるア式だからこそ避けては通れない自分との向き合い方がある。
それは人間としての自分と向き合うこと。
 
僕たちはア式というチームの中に生きている。
このチームの中で、自分の存在を証明するために、僕たちは自分の価値を高めなければならない。 
「俺はここでチームに貢献している」と胸を張れるように、自分なりのチームへの貢献方法を探さなければならない。
その必要性に気付いたとき、僕たちは選手としてだけではなく、人間としての自分とも向き合うことになる。
今まで深くは考えてこなかった自分という人間を知るために、真正面から自分と向き合う。
自分の普段の行動に意識を向けてみたり、今の自分を形成している過去の経験を振り返ったり、時にはチームメイトに意見をもらいながら、自分を知っていく。
そうすると、自分の強さも弱さも、好きなところも嫌いなところも全部見えてくる。
その等身大の自分を受け入れる。
それは自分の弱さを認めることでもあり、自分の強さに自信を持つことでもある。
そして周りを見渡し、自分に問う。 
チームのために、自分が克服すべき弱さとは?伸ばすべき強さとは?
そして何よりも、その先にいる理想の自分は?
自分と向きうことで見えた現実をしっかりと受け止めながらも、自分という人間の可能性を信じ、理想を高く掲げる。
その理想は一人のサッカー選手としての理想であり、一人の人間としての理想である。
その理想に向かって、仲間の助けを借りながら、一進一退を繰り返しつつ、歩み続ける。自分と向き合い続ける。
そうして少しずつ少しずつ、理想の自分に近づいていく。
最後に辿り着ければそれでいい。辿り着いた理想の自分は、自分だけの方法でチームに大きな価値をもたらし、何物にも代えがたい喜びを得ているに違いない。
けれど、必ずしも誰もが理想に辿り着けるとは限らない。
理想と現実の間に、自分の限界を見る時が来るかもしれない。
残された時間が短くなるほど、突きつけられる現実は厳しくなる。
それでも、自分の存在証明を諦めてはならない。
たとえ思い描いたものとは違っても、たとえ辿ってきた道の先にはもう進めなくとも、必死になって行き着いた現在地から周りを見渡せば、必ず自分なりの貢献方法をまた見つけ出すことができる。
それを導き出し、体現できるようになったとき、チームの中に自分だけの居場所を見出すことができる。
自分なりの方法で、チームに貢献できているという実感が、日々を充実させ、幸せなものにしてくれる。
 
価値という言い方は好きではないけれど、ア式がスポーツチームで、勝利を第一とする限り、そういう概念はどうしても生まれてしまう。誤解して欲しくはない。誰一人として欠けていい部員なんて絶対に存在しない。けれど、皆が平等だとも言うことはできない。何も働きかけなければ、何も返ってこない。この厳しい現実を理解し、直視することができるようになったとき、初めて自分に対して真剣になれる。
 
自分を生かすために自分と向き合うのは、社会に出てからも同じなのではないかと、社会にまだ出ていない身ながらも思う。
僕たちはア式にいた頃と同じように社会においても、自分の存在価値を示し、生きている実感を得るために、社会に貢献する方法を見つけなければならない。
「人のために働いているのだ」と胸を張れるように。
そして自分の存在価値を最大限に高めるには、その方法を自分に合ったものにしなければならない。
だからこそ僕たちは再び自分と向き合う。
自分は何がしたいのか?自分の強みは何か?
そこから自分はどうするのか?
自分の生き方を模索する。
したいこととできることは、もしかしたら違うかもしれない。
けれど、人それぞれ、自分の進む道は、自分で考え、自分で決める。
そうして選択した道を信じ、軌道修正を繰り返しながら、自分の力で進んでいく。
その道の先で、自分なりの方法に辿り着くことができたとき、何かに向かって使命感を持ち、努力することのできる幸せな日々を手に入れることができるのではないだろうか。
 
生涯を通じて自分と向き合うことは求められる。その貴重な経験をア式は僕たちに濃い密度でさせてくれる。ア式での経験は必ず未来に生きる。
結論。ア式に捧げる4年間の持つ意味、それは自分の存在を証明しようと自分と向き合うという経験を通じて、人間として成長すること。
考えすぎだとも思う。ア式に捧げる4年間に無理矢理大きな意味を持たせようとしているのかもしれない。そもそもア式に大きな意味を求める必要もないのかもしれない。全力でサッカーに取り組める最後の機会を存分に楽しむ、それも一つの答えとして正しい。大学生活において自身の成長を求めることを強要するつもりはない。
 ただ、ア式に捧げる4年間の持つ可能性は自分次第でいくらでも大きくしていける。このブログをその可能性について自分なりに考える機会にしてくれれば嬉しい。そして、皆がア式に大きな可能性を感じられるのであれば、やっぱりア式は素晴らしい団体なのだと思う。
偉そうに長々とすいませんでした。ずっと悩んできたことをやっと言語化できて今とてもすっきりしています。心機一転がんばります。
成蹊戦どうなったかは分かりませんが、しっかりと残り3節に向けて切り替えて、絶対一部昇格しましょう。
 
最近の出来事
・練の男気が爆発している
・後輩の先輩化が止まらない

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