2017年5月24日水曜日

審判

この前Iリーグの審判をやってきた。
一部の日大対慶應。いろいろな面で次元が違った。
球際切替運動量はいい意味で想像通り。これくらいはやるんだろうなっていう基準で全員が当たり前のようにプレーしていた。
長短のパスやトラップの精度も高かった。簡単なパスがずれたりトラップが浮いたりなんかしたら厳しい叱責の声が飛んでいた。
慶應のディフェンスラインは全員が常に指示や修正の声を出していたし、日大のキャプテンは最後の笛がなる直前まで鼓舞の声を出して闘い続けていた。
他にも前プレの迫力、崩しのアイデア、カウンターのスピード感などなど。キックオフしてすぐの慣れるまでは特に、試合に見入ってしまい審判としての仕事を一瞬忘れそうになってしまうことがあった。

恐ろしいことに、その高い基準を見ることに慣れてくるにしたがって、頭の中でいいイメージが湧いてきて自分でもあれくらいのレベルでプレーできるんじゃないかと感じ始めることがあった。どうせいざやってみようとするとそんなすぐには自分の体は思ったように動かずに絶望するのもわかっているはずなのに。
それでも当たり前のようにプレーする姿に、サッカーが簡単であるように錯覚してしまう部分があった。

実際のところ、ボールタッチの感覚がめちゃくちゃ冴えてるときはあれくらいの精度で蹴れていたときがあったと思う。自分の思うようにプレーできているときは疲れを感じにくくあれくらいの強度で走れていたときがあったと思う。
そのときの感覚が多少なりとも残っていたからそれだけいいイメージが湧きやすかったのかもしれない。

最初に次元が違ったって書いたけど、次元が違うってことの一つに、調子がいいとき、上手くいっているときのプレーをいつでも当たり前のようにできるってことがあると思う。そして、現在ナイスプレーだと感じるような切替のレベルを普通のプレーであるようにやる、半分まぐれ通ったようなパスを自分の一つの技術として定着させる気持ちが乗っているときにできた一本のスプリントを劣勢のときに行う、といったことをできるようになることが次元が一つ上がるってことなんだと思う。
そんなことを実感した審判でした。


最近の出来事
それでもメンタルは削られる
あとその場でお金欲しかった


#60 大澤敦

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