2017年6月1日木曜日

自戒の念をこめて

人間や組織が他者・他組織よりも魅力的になったり、上に立ったりするためには二通りある。
自分を上げる、もしくは周りを貶す。
 前者の例は個人でいえば、自分のスペックを上げたり、善い行いをしたりすることである。組織でいえば、社会貢献などを行い、「良い組織」になることである。
 後者の例は個人でいえば、単純に他者の悪口などを言い、批判すること。より具体的に言えば、自分よりも勉強が出来る人を運動音痴と言ったり、無能とか言ったりすることで、自分のほうが優れていると思いこむ・周りに思い込ませることである。サッカー部なのでサッカーの中での例も挙げる。人から注意を受けたときに、「お前何々じゃん」とか言って、その注意を受けない。意味が分からない。全く関係ない。勿論、人に要求をするときはまず自分ができていることが大事だとは思うが、それは別問題である。無意識に他者を貶し、サッカー選手として自分のほうが勝っていると考え、自己正当化を図っているだけである。組織でいえば、他組織のネガティブキャンペーンなどをすることにより、自分たちの組織の価値を上がったと思いこませることである。
 前者と後者どちらが簡単かといえば勿論後者である。前者は自分が努力しなければならないが、後者は自分のことを棚に上げ、周りを貶すだけで良いからである。人間は直感で物事を判断し、その直感は周りから影響を受ける。自分の価値観にしっかりとした基準や自信を持っている人は多くない。確信をもって、曖昧な否定・侮蔑の言葉を与えるだけで人は揺らぐ。後者のほうが圧倒的に簡単である。
 自分は後者の選択をとる人間にはなりたくないと思っていたし、今も思っている。日常会話の中ではもちろん「その靴ダサい」とかいうことはあるが、こういう会話ではしゃいでいる時間は楽しく、また本心で思っていることも少なく、本心で思っていたとしても、それは自分の価値観での話であるし、他者を貶めようという気は欠片もない。けれど、本気で後者の選択肢しかとれないようになったらと思うと恐怖を感じるので自戒します。



 もう一点。世の中には「見える人間・モノ」と「見えない人間・モノ」がある。例えば王様は着替えを始め、身の回りの世話を家来にさせる。王様はその時に自分の裸を見られても恥ずかしくもなんともない。王様にとってその家来たちは「見えない人間」だからである。
 見える人間は見えない人間から尊敬を集め、その分リスク・責任を負う。他人との差別化をはかりたい人は見える人間になろうとするし、見える人のリスクを負いたくない人はできるだけ見えないようになろうとする。
 見える人は見えない人から尊敬を集め、奉仕してもらう。しかし尊敬と軽蔑、憧れと妬みは紙一重。見える人が見えない人のことを想像しなくなったら終わりだ。
 ほとんどの人間は時と場合によってどちらの人間にもなりうる。このことを自覚していきたい。

参考文献
伊坂幸太郎「マリアビートル」
恩田陸「ユージニア」


#5 白藤颯

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