2017年11月8日水曜日

価値

どのくらいの人が知っているか分からないけど、僕は、処分解除を境にサッカー部を引退するつもりでした。
リーグ戦に出れないこと、処分解除に向けて力を尽くし四年としての責任を僅かながらでも全う出来た満足感、そして、サッカーへのモチベーションがなくなってしまったこと。
活動停止期間中にサッカーから離れて、部活のこと、これからのことなど色んなことを考えているうちに、サッカーに四年間をかけて打ち込むことで何らかの価値が得られるという自分の思いが、盲目的でとても視野の狭いものであったと思うようになりました。
打ち込むものはべつにサッカーである必要はないし、今まで掲げてきた目標もなくなってしまった。
そんな自分が、活動再開後も、全力でサッカーに向き合える自信がありませんでした。

半ば強制的にサッカーを続けることになった後、最も強く感じることは、何て自分の思い通りにならないことが多いのだろう、ということです。
これは、処分期間の様々な出来事を通して感じたことでもあります。
上手くいかないことのほとんどは、自分に帰責すると考えてきましたが、この一年は、そうもいかない場面が本当に多かったです。

こういう状況の中で、自分に帰責しようがしまいが、物事の結果に囚われ続けました。目の前の出来事に一喜一憂し続け、果たして長期的な視野で今の失敗をポジティブに捉えることは出来ませんでした。

ですが、そんな中でも、やるべきことは変わりませんでした。目の前の課題と向き合い、試行錯誤を続ける。それだけです。
自らの力で変えられることはあまり多くありません。変えられない現実を前に自らの姿勢、態度を決めることしか出来ないのかもしれません。

それでは、理不尽な現実に立ち向かう価値はどこにあるのでしょうか。

絶対的に正しい答えは存在しないなか、主観的な基準に基づき、限定された環境に応じて、自らの態度を決定する。

人生をそうした選択の連続だと捉えたとき、選択の対象に価値を見出だすことはとても危ういです。
どういう態度を選択するか、は、自らの主観、与えられた選択肢(環境)によるものであり、ぼくの経験上、このふたつは、実によく変わってしまうからです。ある時期の主観、環境においてベストな選択が常に正しいとは限らず、むしろ過去に囚われることなく、新たな選択を模索するべき時もあるはずです。

絶対的に不変なのは、そうした態度を決定する自由を必ず自分が持っている、ということです。
つまり、現実にどれだけ打ちのめされようが、どんな選択をしようが、最終的に決定したのは他でもない自分です。だから、態度を決定するという行為にこそ価値があるのだと思います。

はなしがややこしくなってしまいましたが、要は、理不尽な現実に立ち向かうことに価値があるのではなく、そのような態度を他でもない自らの意志で選択した行為に価値がある、ということです。

極端なはなし、立ち向かおうが逃げようが、筋を通そうが通さなかろうが構わないと言っているわけで、こういう考え方はあまり格好良いものではありません。

ですが、格好良い正論だけで生きられるほど人は強くないです。
他人に迷惑をかけることは論外ですが、矛盾だらけの自分をそのまま認めてあげること。弱い自分を信じること。
そういう強さも必要なんじゃないか、と思っています。

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ほんまの手のひら返しこわい

#20 佐々木錬

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