2020年12月18日金曜日

「長くて短い4年間」

 1. たつからの質問への回答

みずほでのキャリアプランを教えてください。

→企業のことなのであまりふざけたこと書けないです。3~4年営業やって、森山さんと田舎の方へ向かいます。その後森山さんを置いて、僕は東京に戻ります。いいキャリアが歩めたら最高です。


2.「長くて短い4年間」


長く拙い文章、失礼いたします。


世の中の大半のことは、自分の判断基準で考えたとき、割に合わない。そんな風にふと考えた。中高と、定期試験の時、自分の中では頑張った。でも勉強してないように見える友達には敵わなかった。「なんでこんなにやってるのに、ダメなんだろう。」サッカーでも、練習しているはずなのに、苦しんでいるはずなのに変化は起きない。もともとの序列を変えることは出来ないのかもしれない。でも自分の周りには時々、その序列を変えることが出来る人がいた。前まで一緒にプレイしてた人が、今違うところにいる。こんな経験は誰にでもあるだろう。そういう人たちは、自分の中の割の合わなさを何度も経験して、何度も乗り越えてきたのだろうか。



思えば一年の頃の僕は、楽観的で自信過剰な選手だった。とてつもなく太っていて周りから笑われていたのに、自分なら誰にも負けないって何の疑いもなく信じていた。それは実際に一橋の練習に参加しても変わらなかった。当時の4年生の圭吾さんや健也さんを実際に見ても、「上手いが、おれなら絶対勝てる。1年でレギュラーになってやる。」。同期の人は知らないと思うけど、本気でそう思ってた。意識だけは一人前だった。

「皆と同じように練習をして、今までのように試合をこなして経験を積めば、どうせいつか試合にでてるはず。」

サッカー選手の熱い名言とか好きだったから、そんなことは言葉に出さないけど、心の奥底で考えていた。


与えられた練習に皆と同じように取り組み、走りの練習もやりきった。たまに居残り練習で時間をかけてパス練習をした。

食事も注意されたことは、やるように変えていった。

試合では勝てると思う相手には勝つときもあれば、負ける時もある。負けると思うチームには負ける。負けたときは、その瞬間悔しくなって、帰りは笑って楽しく皆と帰る。

カテゴリーはB1とB2を行き来していた。

そんな日々を過ごして、一年たった。僕の目標は達成できなかった。


続く二年

この頃もまだ自信があった。「まあまだ二年だしな。学年が上がっていけば、カテゴリーも上がるでしょ。いつか、それか最後には絶対試合に出られる。」。

下級生が入ってきた。ある日、自分のものだと思ってたB1のポジションは無くなった。最初は怒りで頭が真っ白になった。何かを変えるために家で自主練した。けど1,2ヶ月と経ったら以前の様な悔しさは薄れていた。自主練をやったりやらなかったり、やっても結果が出ないことにイラつき、自主練することや時間をかけることが目的になっていた。

そんな僕にも一回チャンスがきた。誰かが怪我をして、A2の紅白戦に出られることになった。頭にラウールの「目の前に来た列車に飛び乗れるかどうか。それが成功と不成功、運と不運を分ける。」が浮かんでいた。正樹さんを前に何もできず、チャンスは消えた。準備したはずと思いこんでいた僕の自信は消えた。「何で練習した割に何もできないんだよ。」ふと思った。

一年の時と同じように皆と一緒に与えられた練習を行い、皆と一緒に走りの練習もやり切った。時に怒られ、叱咤激励の言葉をもらい、気分の浮き沈みを感じながら、与えられた課題に取り組んだ。でもAの人と自分の差が埋まったように感じなかった。

全く同じ文章になるけど、

試合も勝てると思う相手には勝つときもあれば、負ける時もある。負けると思うチームには負ける。負けたときは、その瞬間悔しくなって、帰りは笑って楽しく皆と帰る。

カテゴリーはほぼB2、たまにB1だった。

二年たってもいつかは来なかった。



三年


自分には残された時間があまりないことにようやく気づいた。

大口をたたき、試合に出ず、一発芸の時だけチームに必要とされる自分が嫌いで仕方なかった。

自分にとって最後の一年だと思ってサッカーをやろう。そう思った。

初めて自分から、人に与えられてないことで自分を変えようと思った。整体師やジムの人にトレーニングを聞き、知らない人とサッカーをさせてもらい、自分の至らなさを痛感した。

けどやっぱり試合に絡むことは出来なかった。ベンチ入りできる雰囲気すら感じなかった。

自分の足りなさ、準備不足を嘆いた。


一年の時と同じように皆と一緒に与えられた練習を行い、皆と一緒に走りの練習もやり切った。大澤さん、戸塚、健太に本気で勝ちたかった。だからこの三人と対峙するときは激しくいった。意識を変えた割に、Aの人と自分の差が埋まったように感じなかった。

試合も勝てると思う相手には勝つときもあれば、負ける時もある。負けると思うチームには負ける。負けたとき悔しくて誰とも話したくないときがあった。途中出場なら、自分の出てるところだけでも勝ってやる。そう想うようになった。

カテゴリーはB1が多くなった。

三年たってもいつかは来なかった。


四年


コロナ後練習が再開されて、何が何でもAに入ってやる。そう思った。自分なりの結果を残す。そこに意識を向けていた。

大学四年間で初めて、関東リーグに所属する慶應と闘える日がきた。リーグ戦には全く絡めてなかったけど、自分でも驚くくらいワクワクした。関東一部のチームを倒したい。そのためにトレーニングをしてきたんだって思うくらい興奮していた。

結果、何もできなかった。空虚さだけが残った。どうしたら自分より強い相手に勝つことが出来るのだろうか。結局答えは出なかった。「考えて練習しても何もできないのかよ。」割に合わない。心から感じた。

練習の意味を考えるようになり、以前よりチームのために声を出せるようになった。

試合も勝てると思う相手には勝つときもあれば、負ける時もある。負けると思うチームには負ける。そこは残念ながら変わらなかったが、10分でも何か爪痕を残してやる。そう思うようになった。

気づいたら引退日を迎えていた。いつかと思ってたリーグ戦の日が僕に来ることはなかった。最後の試合、自分の20年近く続けてきたことが終わると思うと変な感じだった。自分の人生が終わるような、変な感じがした。




引退してサッカーから離れ、自分を振り返り、思うことがある。

四年間サッカーを大学でやり続けて、1分も試合に絡むことも、その予感を感じることもなかった。この状況は、人生で最も力を注いだと感じる自分自身の判断基準からしたら割に合わない事態なのかもしれない。だけど成功した人を考えたとき、何にも足りていなかった。

頭の中に少しでもまだできることが思いつく。その時点で僕は成功するに値しなかったことがわかる。自分では足りていると思うことでも、実は何にも足りていない。そのことを理解できていなかった。

正直この四年間はかなり苦しくて、悔しくて、自分の人生で最も辛い期間だった。自分の掲げた目標は叶えられないし、ボロボロに負けた試合しかほとんど思い出せない。いつか必ず来ると思っていた自分の番が来ることもなく、最大のチャンスを物にすることもできなかった。自分の言動で自分の首を絞め、自分を生き辛くしてきた。反省しなくてはならないこと、つらかったことを挙げるとキリがない。


でもそれ以上に、この四年間もがき苦しんで得られた経験から学べたことは多い。プラス面は初めて自分を変えるために動きだせたとき。知らない場所でサッカーをしたり、知らない人に自分の意見をぶつけるのは苦痛でしかなかった。でもその先に大きな充実感があること。自分を変えるのがどれだけ難しいかを知ることができた。逆に、与えられたことに満足して、それをこなす奴にチャンスなんか来ない。何にも得られることはない。それを大きな虚無感と一緒に痛感させられた。


やっぱり何かを変えるにはどうしたって動き出すしかないと思う。どんな些細なことでもいい。そこから次につながることは必ずある。1,2年の頃、一橋サッカー部のあらゆるものは、僕に与えられたものだった。食事ライン、練習、筋トレ。与えられたものに対して思考停止をしている状態では何の充実感もなかった。本気で成長したいと思って動き出したとき充実感と共に人は大きく変わることが出来る。僕はそう信じている。


最後に僕の好きな言葉を送ります。

「王侯将相寧んぞ種有らんや」

どんな選手であっても、努力と意識次第で素晴らしい選手になれると思います。


一緒にBで練習をしていた選手が、Aのレギュラーとして出場する日を、一橋大学サッカー部が関東で戦う日がくるのを信じています。


サッカー、チームメイトとコーチ、家族のおかげで充実した日々を送ることが出来ました。

心からありがとうございました。またいつか皆でサッカーができる日を楽しみにしています。


3.最近の出来事

卒論0文字、さすがに萎えてきた。


4.松田への質問

一番付き合いの長い松田の好きな部分が胸って知ったとき狂喜乱舞した。

最後に聞かせてくれ。何故好きなんだ。


#18 八田健吾


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